雑感

歴史観や世界観

 早期退職して6年。
 人口が急激に減少している秋田県にもどり、職にもつかず、ぶらぶらしながら、畑違いの自然科学や古生物学の本を乱読した。
 そして、ふと思うことがある。
 
 現生人類がこの世に現れて10万年ほどだろうか。(いまもって分かっていない)
 現生人類が、どのようにして生まれてきたのかを私は知らない。
 旧人のネアンデルタールなどと交雑したらしいが、その旧人もどのようにして生まれたのかを私は知らない。

脳の進化(容量)2

 とにかく、今、この地球で繁栄している人類は10万年の歴史を持っているとしても、9万年以上は無文字文化であった。
 金属器が使われるのも、つい最近のこと。人類史はその9.5割は石器時代であり、農耕などつい最近のことである。

 学生時代に必死に学んだ「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」は、私のその後の物の見方や考え方の羅針盤である。
 そして今でも大筋で正しいと思っている。


私の知人は、アジアに歴史なく、ドイツ哲学こそ最強と

 二十代半ば頃に知り合ったヘーゲル研究者は、日本では体制変革など起きることはなく、アジアは思想でも歴史でも世界の主流には絶対になり得ず、変化の主体にはならないと述べていた。

 循環論から脱することのできないヘーゲルの論理に固執すれば、当然の帰結と言えるだろう。

 ヘーゲルの弁証法は、哲学の歴史を省みれば革命的な論理である。世界のあらゆるものが絶えず変化していることを肯定した事がその最大の功績である。
 ヘーゲルの弁証法はマルクスやエンゲルスによって、科学的で発展的な弁証法へと推移していく。

が、もっと鳥瞰図的に考察すれば

 人類史は、今なお混沌としている。現生人類ですら、アフリカで生まれた現生人類が世界に散らばったという説と、多地域で独自に進化してきたなど様々な説がある。
 我々は、今なお、自分の出自すら理解できていない。

 オーストラリア・アボリジニーや、人間とみなさず狩猟で絶滅させられたタスマニアの人々などの特質は、人類が多地域でそれぞれ発展したのではないかとう学説のよりどころになっている。

 私は、人類学など門外漢であり、ミトコンドリアDNAなどに関する知識も皆無だし、突然変異がいかにして起きるかもわからない。

 現生人類がどこで生まれどのように推移してきたのかわからないが、上述のヘーゲリアンのようにアジアの歴史は研究の価値もなく、アジアの国々は歴史の変革主体にはなり得ないと決定づける根拠を何に求めるのか。

 自然環境なのか、そもそもモンゴロイドが進化の過程でコーカソイドとは異なる人間で変革の主体にはなり得ない人間なのか。

 ネアンデルタール人は、鼻が大きく、顔が立体的なのは、氷河期の寒い環境の中で冷たい空気を少しでも温めて体に入れたからだという学説がある。
 が、それなら、北極圏のモンゴロイドは、体がさほど大きくはなく顔も平面的である。

 また、人類起源は遺伝子の研究でも、ある研究では15万年前と言われたり、他の研究では8万年と言われたり。この差は倍近いが。どの研究が正しいのか。わからないことばかりだ。

 ともあれ、文字ができて記録し始めたのは、早くても数千年前のことだ。石器にかわって金属器が出てくるのも数千年前からだ。
 農耕も同じだろう。

 ギリシアで自然哲学が生まれた頃の世界は、文字を理解していた人間は全世界でいかほどいたのか。

 地動説が当たり前のことのようになるのはいつからなのだ。ヨーロッパの哲学が認識論をテーマにしたのはいつ頃からなのか。
 人類史を振り返っても、科学的な考え方などと言われ始めて二百年を経ていない。

 体は、相変わらず変化していないのではないか。すなわち、認識能力はそれほど変化していないのではないか。(道具とは、人間の認識を補助し拡大するものであるが…)
 また、人類の生活で大半をしめる、食べることや性的なことなどは他の動物と大差はない。
 
 原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と人類の社会は変化してきたが、これがストレートにグラフの曲線のように変化してきたのか。
 生産力と生産関係という視点に立てば、現生人類の歴史は95パーセント以上が原始共産制社会である。

 地球規模で見れば、生産力が著しく低く、変化がほとんどないまま、そこに突然、帝国主義段階の資本主義が現れ、これまでの生活が破壊された地域は多々あるのではないか。

 今やファシズムが荒れ狂い、いつ世界規模の戦争が起きるかわからない時代に突入し始めている。
 20世紀の二度の世界大戦で数え切れないほどの人々の命が奪われても、世界がもつ矛盾は深まりこそすれ、何一つ解決されていない。

 相変わらず極東・西アジアや東欧は世界の火薬庫になっている。

 お題目のように、民主主義などと言っても始まらない。

 いったい民主主義とは何か。三権分立は民主主義なのか。市民とはどのような人間か。多数決原理と民主主義は不可分離か。法とは一体なんだ。立憲主義はなんだ。
 階級的視点を失った時、上記の問いには、陳腐な回答しかないと私は思うが。

 「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」など、今では忘れられた学問かもしれないが、私は今なおこの考えを支持する。
 ただ、教条的な学びはなにも産まないし、先哲の思想をさらに前進させる認識論が待ったなしに不可欠だと思っている。

 「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。」(「フォイエルバッハに関するテーゼ」より)は、今でも大切な言葉だと思う。

 資本主義の発展は、労働者の組織化の難しさを作り出している。墓掘り人を簡単には生み出さない状況になっている。世界の裏側のことは本来なら瞬時でわかるほど通信網が発達しているが、私たちが知ることができるのは、独占資本による搾取や略奪を補完するように加工された情報のみである。

 今、世界を支配する巨大独占資本群によって作られた非科学的な思考や無関心を覆さなければならない。
 新たな哲学や歴史観や変革の理論が、最新の科学的な成果をもとに再構築されねばならないのではないか。とても個人の力の及ぶところではないかもしれない。
 多くの勤労者が連帯して作り上げねばならないかもしれない。

追記

 昨日の秋田県知事選挙は、自民・公明・社民が推薦した現職知事が当選した。
 自民・公明・社民の推薦とはどういう構図なのだ。前者二つが推薦し、社民も推薦するのか。
 どうして国政レベルでは社民は自公と連立しない。

 まさに社民だ。社会民主主義はファシズムの呼び水である。

追記その2

 
 時事ドットコムに
「社民幹事長「改憲否定せず」=安倍政権下では反対」という記事があった。憲法は、改正の手続きがある以上、改正すべきは改正すべきなのだろうが、なぜ今、この時期に「改憲否定せず」と表明するのだ。

 「安倍政権下では反対」と但し書きをつけても、無意味であろう。ならば、安倍以外の政権なら賛同するのか。この階級的な視点のない社会民主主義特有の右翼日和見的な主張だ。

 ◯○政権などという個別の問題ではないだろう。
 働く人々の諸権利を守り、拡充するような憲法ならば改憲に賛成であるというならわかるが。

 この政党は、いつの日か確実に戦時国債に賛成する。


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